わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
(詩篇27:4)
信仰を持つ前の私にとって、特に日曜の礼拝は堅苦しいもの、自分を束縛し、楽しいことから遠ざけるもの、そんなイメージしかありませんでした。
しかし今は違います。礼拝の中で神さまが私に触れてくださり、満たしてくださり祝福してくださることを知っているからです。
もちろん同時に、み言葉を聞くことによって葛藤を覚えたり、罪が示され痛く砕かれることもあります。しかし、その全てがかけがえのない祝福だとわかります。
聖書は礼拝を私たちの一番の事柄であり、人の人生の目的であり存在の理由であることを語ります。
礼拝に何を求め、イメージするかで、私たちの礼拝は変わります。
ダビデ王は、その生涯を通して、神さまを求め、満たされ、交わりの喜びに浸される礼拝をイメージしました。
かつては礼拝に背を向けていた私でした。
だからこそ、今このダビデの言葉に心からアーメンということができます。
今、皆さんはいかがでしょうか?