主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
(イザヤ書59:1)
祈っても問題が解決しない日々、また思い通りにならない物事。
そんな時、思わず私たちはつぶやいてしまうことはないでしょうか?
「神さま、あなたはどこにおられるのか? あなたにはおできにならないのか?」と
私たちの祈りも、つぶやきも、しばしば自分だけが中心であり、自分が見ているものだけがすべてとなっていることはないでしょうか?
神さまとの間を隔てている”罪”から目をそらしていないでしょうか? また、神さまよりも自分のほうがよくわかっているという風にふるまってはいないでしょうか?
この時がチャンスです。神さまの前にひざまずき、心から神さまこそすべてにおいて主であると認め告白して従う歩みを回復するチャンスなのです。
- 祈り 神さま。あなたの見ておられるすべてをわたしは知らないでいることを認めます。どうかあなたの良しとされることをなさってください。私はあなたの導きに従います。あなたのみ言葉を聞かせてください。