「…主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。
(哀歌3:24)
エレミヤは過酷な状況の中でも、決して奪われることのない、本物の希望を語ります。
「あなたには、このかたこそ『主』と呼べる、まこと神がいるじゃないか!」と。
ある人は、「たとえ神がいても、わたしの今を変え、わたしの願いがかなえないなら、そんな神は必要ない…」と、自分を中心に、狭い視野で神を拒みます。
しかし、エレミヤは心から「神さまこそが自分が受けるべき祝福のすべてだ!」と神が共におられること、そのものの幸いに目が開かれているのです。
あなたはつかんでは、壊れていくようなものに望みを置いてはいませんか?
「神こそわたしの人生の主、この方こそわたしの受ける分、わたしはこの方を待ち望む」と告白して目を上げていくとき、わたしたちの歩みの先に、神のご栄光を見ることができるのです!
- 祈り 主よ、わたしの心はあなたに望みを置いています。どうか、わたしたちの信仰を引き上げ、あなたの栄光を見ることができるよう祝福して下さい。