キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
(ガラテヤ人への手紙5:6)
今、傍らでスマホを充電しています。少し時間が必要です。
キリスト者にも、いつも愛の充電が大切です。
そういう意味で「キリスト・イエスに結ばれていれば」という言葉が強くせまってきます。
この方によって、人の側に、かつてのしるし”割礼”はいらないと告げられています。
しかし、どうしてもそのしるしをもって神さまの救いの条件や評価を主張したがる人たちがいました。
人が、自分の側で充当できる目に見える条件や力を主張するとき、恵みが見えなくなってしまうからです。
どれだけ何かができたことや、見える奉仕の成果やささげものでの評価。…それは人が満足する条件で、神さまが見ているものとは違います。
時間に追われたり条件に追われるのではなく、キリストの愛に覆われている恵みを十分に受け取りましょう。そこからそれぞれに生み出される感謝と喜び、キリストの言葉への信頼と愛に満ちた応答こそ幸いです。
まず「キリスト・イエスに結ばれていれば」ということこそ大切。
その霊的充電が、「愛の実践を伴う信仰」の応答となると信じます。
- 祈り イエスさま。今、あなたにつながっていること、あなたの愛に覆われていることを心から感謝します。あなたの愛をうまく受け取る者としてください。鈍い心と流されやすい思いに気づきを与え、いつもあなたと共に歩むことができますように。どうか導いてください。