わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。(1ヨハネ4:16)

★とりなし祈る者として

主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。…」

(創世記18:17-18)

「わたしが行おうとしていること」とは、ソドムとゴモラの罪のありさまを確かめ、裁くためでした。

一方ですべての民の祝福の基となるアブラハムにはそれを知らせようと、ここで語られました。
それを聞いたアブラハムは、その町にいるであろう正しい者たちのために、心からとりなし求めるようになります。(22節以降)

だれかのためにとりなす者として行動する。
それはアブラハムの祝福を受け継ぐクリスチャンたちの姿です。

今もだれかを、民族、国などのありさまを見て、失望やいただちに動く気持ちがあります。
しかし、裁きは、神の専権です。わたしたちは先に恵みによって救われた者として、そこに救われるべき人たちを思い、とりなすことこそ、祝福を受け継ぐ私たちのありさまだと信じます。

1テモテ2:1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。

  • 祈り 恵み深い天の父なる神さま。わたしもまた誰かのとりなしの祈りによって、あなたのゆるしを受け取る者とされました。わたしたちもまた、この時代と人々のためにとりなす者としてお用いください。
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