「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
(イザヤ書6:3)
「聖なるかな」というフレーズ。賛美の中で聞いたことがあるでしょう。
イザヤは神の御座の前で、天使のセラフィムたちがささげる賛美として耳にしました。
圧倒的な臨在と、その賛美の意味する「聖なる」という言葉の前に、イザヤは震えおののいて言います。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を見た」。(:5)
これを聞いて、自分はそれほどの神さまへの畏れをもっているだろうか、…と思わされます。
そして、そんな聖なる方が、人となり、人の中に住まわれ、人の身代わりとなって十字架で死んでくださったことがどれほど畏れ多いことかと知らされるのです。
わたしたちは、畏れと感謝の心をもって受け取っているでしょうか?
神さまを畏れることを忘れた世界において、人はそう問われているのでしょう。
- 祈り 聖なる神さま。あなたは、そのまなざしをわたしにも向けてくださっています。それは、とても恐ろしいことであるにもかかわらず、そこで赦しと癒しを経験できることを感謝します。わたしの心の高慢を取り除いてください。あなたを心から”聖なる主”として礼拝する者としていてください。