「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。
(テモテヘの第一の手紙 1:15)
自分の罪について深い痛みを覚え、正直に向き合うパウロの言葉です。
「わたしは罪びとのかしらだから」と聞くと、その言葉はただ謙遜にふるまうためだけの言葉や他人からそう言われないための予防線となっていることが多いかもしれません。
誰かに「そうね、あなたはひどい罪びとね」と言われると非常に腹を立てるか、非常に落ち込むこともある…これがその証拠です。
でもパウロの告白は、自分がひどい罪びとであるという自覚を告白しながら、その自分の罪ための犠牲となってくださったイエス・キリストを心からの感謝をもって表しています。
どうしようもない私のために、イエス・キリストが身代わりとなってくださった。この方のほかに救いはない。パウロは、ここで救いの確信を新たにしています。
あらためて、あなたはいかがでしょうか?