卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。
(詩篇119:71)
別訳では「苦しみに会ったこと」とあります。信仰者が振り返った時に「そうだったね」と気づかされる経験をここで語ります。
へブル人への手紙12章にこうあります
:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
そしてその背景に神さまの配慮を語りだしています。
:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
なぜ、こんな困難が…と感じる経験の中でも、間違いなく神さまは共にいてくださいます。理解できないほどの悲しみや苦しみさえも、「わたしのために良いことでした」と振り返ることのできる日を神さまが与えてくださいます。
映画にもなった小説「神の小屋」には一人の信仰者の心の旅路が描かれています。
自分の幼い子を殺された一人の男性の苦しみと回復の遍歴です。そこでキリストと出会い、神の深い愛を見いだしていくのです。
人は苦しみの一点しか見えないことが多いでしょう。
しかし神さまは、そんな私たちを、その一点を通り抜けた、恵みと慰めの平原へわたしたちを導かれます。
そこで神さまが共にいてくださいます。教会はとりなし祈ります。どうかあなたの経験が、キリストとの真実な出会いとなりますように。
- 祈り 主よ、わたしがどん底と思えるような経験をする中で、あなたが共にいてくださることに気づくことができますように。わたしの心をあなたの御手によって触れて導いてください。