つまり、あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
(ピリピ人への手紙1:29)
「キリストのために苦しむ」ということが語られていなければ、わたしは信仰生活も牧会生活も破綻していたことでしょう。
理想的には、キリストを信じるからこそ、これほど豊かで成功し、これほど人から喜ばれ、最大の尊敬を受けることができる…と言いたいところです。
けれども、その逆を経験することが多いのも実際です。
そんな時、キリストが受けた敵意、憎しみ、裁き、鞭打ち、十字架の死の苦しみ、そして孤独を思う時、わたしの苦しみはそれに及ぶものではないことに気づかされます。
その苦しみを「恵み」として、受けるにふさわしくない者のキリストに倣う経験として、わたしたちが味わうことで、わたしたちを愛する主イエス・キリストの愛の真実に、感動しひざまずかざるを得ません。
いきつくところは「恵みとして与えられている」という気づきと感動なのです。
- 祈り 主イエスさま。あなたがこの地上で負われた苦しみと悩みの一端を、わたしたちは経験して、あなたを想うことができることを感謝します。どうかわたしの心からつぶやきを取り去りきよめ、恵みとして感謝することができるよう気づきをお与えください。