牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入られられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それはその人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。
(レビ記1:3-4)
イスラエルの礼拝には神から示された完全な礼拝の型がありました。
ひとつは無傷の雄の牛を焼き尽くす献げ物とすること。その牛に手を置くことで罪を贖う儀式とすることでした。
ただし、それは繰り返されなければなりませんでした。
この型は、神の御子キリストの犠牲によって、すべての人の完全な罪の贖いとして全うされた。もう二度と動物の犠牲をささげる必要はなく。今はただキリストによって完成された贖いを感謝して神の前に近づくことができます。
それが聖書が語る福音のメッセージです。
当時の人たちから見れば、わたしたちはどれほど恵まれた時代を生きているかわかります。
パウロはそんなわたしたちにこう語ります。
…神の恵みをいたずらに受けてはならない。・・・見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。(2コリント6:1-2)
- 祈り 愛する神さま。わたしたちの罪がもたらす障害がどれほど深刻なものであるかを、御子キリストの十字架上の苦しみと命の犠牲に見ます。わたしはその贖いによって今、完全に赦されて神の子とされていることを感謝します。どうかこの尊い恵みを大切にして、あなたにつながり続けることができますように、わたしの心を守ってください。