そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益です。
(ピリピ人への手紙1:20-21)
献身者、伝道者としてのパウロの告白は、今を生きるわたしたちの思いと生きざまを照らし出します。
ひたすら自分が生きることも死ぬことでも、キリストが人々に知ってもらえるように、というところにパウロは目を向けています。
最近では「終活」という言葉が定着し、人々の目はやがて来るだろう死を迎えるための身辺整理に目が向けられています。
わたしたちクリスチャンの「終活」は救われたときからもう始まっています。生きている時には、キリストの愛をあらわす者として、死ぬときにはキリストにある希望に生きたことが証しされるように…と。
そんな備えができれば、わたしたちもパウロのように言うことができるのです。
「わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは利益です」。
- 祈り 愛する天の父なる神さま。わたしが今日、あなたと共に歩む事が出来、あなたの愛をあらわすことができますように導いてください。またやがてこの地上を去る時には、わたしに与えられている復活の命の希望に生きた証しが人々に知られますように。どうかすべてをあなたが祝福してください。