およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
(ヘブル人への手紙12:11)
「鍛錬」は、「練習」や「訓練」よりも数段の厳しさをも意味するそうです。
「悲しいもの」という実感が迫る。これも聖書記者の正直な証言です。
しかも、信仰生活の鍛錬は、自分の想定の範囲内での経験ではなく、多くの場合予想外の経験となるからこそ、つらいのです。
でも、覚えてください、どんな状況や問題の中にある信仰生活でも、必ず聖霊さまが共にいてくださいます。
一歩一歩、主を見上げ、祈りつつ、感謝して歩みましょう。
聖書の正直な証言は、「後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」とあるのですから。
- 祈り 主よ。あなたはいつどんな状況の中でも共にいてくださることを、心から感謝いたします。どうか私自身が、信仰に立ち、信仰を働かせて、いつも感謝して歩むことができますように、励まし導いてください。