ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」
(創世記41:16)
「わたしではありません。神が…」と、エジプト王ファラオの前でスッと自分の言葉にできたヨセフは、いつも神さまが共にいてくださることを大切にしていた人でした。
これまでの裏切られ捨てられた経験、牢に入れられて過ごす長い年月。そこで彼がどれほど苦しみ、嘆き、悩み、怒り、恨み、声を荒げた…とは、聖書は語りません。
代わりに聖書は、そんな境遇の中でも、「主が彼と共におられた」こと、その場所で誠実に自分の務めを果たしていたことを、繰り返し語っています。
ところで、心を悩ます夢の説きあかしを求めたファラオにとっては、それがだれでもかまわなかったと思います。
しかし、今日のヨセフの言葉から始まる説きあかしを聞いて、ヨセフと共に神がおられることに目が開かれてこう言いました。
ファラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と…(同:38)
イエスさまは、信じるわたしたちといつも共にいてくださると言われます。
今いるところで、神さまに、「自分が」ではなく、「神さま」に道を譲り、その知恵と導きを求めましょう。その積み重ねが、よき祝福の証しとなります。
- 祈り 主である神さま、今日もあなたはわたしとともにいてくださることを感謝します。あなたが、どんな場所、どんな状況の中でも、わたしたちに誠実に生きる知恵と思いを与えてください。どうか、わたしではなく「主が」良い知恵をもって導いてください。