けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、だれ一人として義とされないからです。
(ガラテヤ人への手紙2:16)
「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」。
人の側の手当てで、この事実を変えることも修正することもできません。
このことを知り認めることで、わたしたちは、神さまの前に謙虚になれます。
そして、神さまが用意してくださった福音を素直に感謝して受け取ることができるのです。
神さまへの自己主張が激しいと、神さまの言葉が聞こえなくなります。律法主義の世界がそういうものかもしれません。
深呼吸をして静まり、まず神さまのみ声に耳を傾ける。そんな一日の歩みの始まりの幸いを味わうことができれば感謝ですね。
- 祈り 主よ、わたしたちに福音をくださり、ありがとうございます。信じて生きる者としてくださったことを感謝します。今日、まずあなたの御声を聞きます。わたしの心をやわらげ、一日をあなたの思いを思って歩む者としてください。