互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
(コロサイの信徒への手紙 3:13)
たとえ当然「責めるべきことがあっても」ということです。
他人事であっても、だれかに「責めるべきこと」があると、周囲に乗っかり批判の心を燃え立たせる…、そんなことはありませんか。
ましてや自分が関係することであれば、相手を責めることは、当然の権利と思うかもしれません。
聖書はそこで、イエスさまを指し示します。十字架上から、わたしたちをとりなし、また身代わりとなられた、主イエス・キリストを示して、「赦し合いなさい」と語られるのです。
その時は、イエスさまがどれほどの愛をもって、わたしをゆるされたかを想う機会なのです。
その愛の深さと赦しの真実を想う機会なのです。
…ただ感謝しかないことに気づくことでしょう。
- 祈り イエスさま、わたしが責めるべき相手に怒りを持つとき、あなたに目を向ける思いを与えてください。あなたがわたしをどれほど愛し、赦してくださっているか。イエスさまがどれほどの苦しみ、痛み、損失や犠牲を負われたか…。それがすべてわたしのためなんだ、と気づくことができますように、あなたを想う心を与えてください。