「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。」
(ローマ人への手紙 4:7)
ダビデ王自身も受け取り、表した、「神から義と認められた人の幸い」です。
たとえ王であろうと、神さまの目の前に置かれるとき、その罪あることを知らないではいられません。
多くの人は、罪にはふさわしい罰を!と思います。もしその人がゆるされてしまったならば、腹立たしく思うかもしれません。
でもそれが他人ではなく、自分の罪の場合はどうでしょう。
聖書は、神の前における人の罪の代償は、すべてキリストが十字架で身代わりに背負い、死をもって支払われたことが記しています。
だから聖書は、神さまの前にある私たち一人ひとりの罪の赦しを語ります。
そして、それを受け取る者の幸いを語っているのです。